第3号 2007年12月
代々木上原教会9条の会
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鈴木 伶子
ふたたび日本が戦争をする国になると懸念されている。戦争前、戦争中にキリスト者がどのように考え、行動したのか、「日本YWCA100年史」から学ぶ。
YWCAは国際団体として国際的情報に恵まれ、また平和を願うキリスト教団体として、戦争に反対の姿勢を取っていた。しかし、中国侵略や朝鮮植民地などの現実を認識してとはいえず、戦争反対を願いながらも国に協力していった。
1937年に日中戦争が始まると、日本基督教連盟は直ちに、政府声明の趣旨に沿いキリスト教会をあげて奉仕すると表明し、11月の基督教連盟第15回総会では、日中戦争という「わが日本にとり、有史以来の国難」に際し「国難に殉ぜずして何の信仰、何の伝道ぞや」という声明を発表した。日本YWCAは「どこまでも基督教連盟と歩調を合わせて時局に善処すること」という姿勢を取り、この後、基督教連盟の方針に、一歩遅れながら従うようになる。この頃はまだ国際団体として平和を求める動きを続けた様子が見られる。学生修養会でもナショナリズムに抵抗し、時代におけるキリスト者の使命を考えていた。38年の世界YWCA総会、39年の世界学生キリスト者連盟大会など、国際会議への参加者は、中国で日本が行っている戦争について知らされたが、帰国後の報告会ではその事実を語っていない。
40年 反戦・スパイ容疑で賀川豊彦などが憲兵隊に拘引された。キリスト教界は非常な危機感を持ち、国策協力の姿勢を強め、政府の指導の下に宗教法人法改定、、教団設立準備を始めた。YWCAも敵国との繋がりを疑われる危険があった。40年の万国基督教学生連盟祈祷日には、神の愛により国を異にしても一つに結ばれていることを確認し、万国YWCA祈祷日も、武力で行き詰った今の世界が聖霊によって満たされよう祈るが、世界行事はこれを最後に中止された。敵性宗教団体のレッテルを恐れ、40年9月の常議員会は、世界YWCAと世界学生キリスト者連盟を脱退した。会長植村環と総幹事加藤タカが世界YWCAに送った手紙は、世界運動への思いを切々と綴り、ふたたび共に連なる日の来ることを願うものであるが、加藤は同じ時期に、YWCAは外国から独立した歩みをしてきたものだと、国際団体を否定する記事を機関紙に書いた。創設時から献身的に働いた外国人スタッフや委員も、「自主的に」帰国することになった。
40年は皇紀2600年とされ、日本基督教連盟は2万人の信徒を集めて「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」を開き、YWCAも参加した。日本古来の神話とキリスト教を一致させようとする日本的キリスト教が起こり、特に植村の属す日本基督教会には、その最右翼である「みくに運動」があった。日米開戦の41年、日本基督教連盟は除夜祈祷会と元旦礼拝のあと皇居前で君が代、宮城遥拝と万歳三唱をした。41年にはキリスト教界を統合して日本基督教団が設立され、日本キリスト教会の牧師として参加した植村環は婦人伝道局長になった。局長としての植村の論調は全国教会女性に牧師出征後の銃後の務めを説くなどYWCA内より遥かに国策協力の姿勢が強い。42年にはYWCAも教団に加盟する。文部省の役人が教団加入か愛国婦人会加入かと選択を迫ったと言われる。『女子青年界』の巻頭言でも植村が時局の問題を取り上げるようになった。YWCAでも、雑誌委員会から「新しい方向性をはっきり出してほしい」という要望が出て編集委員長が交代した。しかし平和を説く論調も残っており、時局に流されないように警告する記事もある。しかし国の方針で、報国団が結成されると、大学・学校・市のYWCAは、報国団の一部に組み込まれ、独自の活動は不可能になる。
会員からは、神棚設置等の質問が寄せられ、宗教委員会は、「日本古来の神観とキリスト教の神観」という12頁の小冊子を出した。当局の目をくらまそうという工夫であろうか、天皇と神について国学派学者の論文を長く引用し、最後の数行に、これで分かるように日本古来の神と聖書の神は違うと書いている。大麻拝受については伊勢神宮の建築費であるから受けて良い、神棚は一般家庭に置くことは皇室に失礼だとして設置不適当をとなえ、そのかわり、神社参拝は国家の功労者に尊敬と感謝の念を表すことで国民として当然と論じた。
戦争への総動員体制が敷かれ、43年には幹部練成会開催など国策協力を求められた。この頃からYWCA同盟委員会記録は短く内容的記述がない。『女子青年界』も用紙の配給がなくなった。44年3月の終刊号に植村は現実のYWCAが国家に尽くしていることを認めつつ、天上にある真実の神の国を仰ぎ見つつ進むものでありたいと神の憐れみと導きを願う祈りを書いた。この頃、将来の活動を研究するための研究室が設置された。一両年に戦争終了を予測していたと思われる。空襲で委員会は開かれず、各地の会館は接収されて活動不能の内に敗戦を迎えた。戦争が悪であり国家が絶対ではないと知りつつ、団体を守るため、国に協力をしていったのが、YWCAの姿であった。
(代々木上原教会9条の会10月28日発題)
西田 和子
来年1月に講演を伺う李鐘元先生の書かれたものを少し勉強しておこうということで、紹介の役を西田が担当した。先生の主著書は大きなもので、それには短時間では歯が立たないと思い、最近新聞紙上で紹介されているものを集めてみた(朝日03 3/19、06 11/2、07 11/5、毎日07 10/10)。また現在の大きなニュース、四者会談の成り立ちを知る上で『世界』誌上の論文(99年4月号)が大変参考になったので、その大意もあわせて紹介した。
以上を学んだ後で話し合った主なことは、10月3日の六者協議以降、関係各国が新たに努力目標を掲げ、努力しようとしていることに対し、日本は「拉致が片付かないうちは何もしない」という巷の声に添ったいき方で良いのか、どうか。これに対し、対北朝鮮政策について書かれた田原総一郎の記事(朝日11/7)を佐藤厚さんが紹介してくださった。今こそ交渉路線へ転換すべきである、と。また、どなたかの発言で、韓国では「拉致」という言葉は使わず、「行方不明者」と呼んでいる、との紹介も、私たちに一考を促す言葉だった。
(11月25日)
(新日本出版社、1300円) 石井 和子
アレン・ネルソンは、1967年、18歳でベトナムのジャングルに送りこまれた。米国軍隊はベトナム人をグークス(野蛮な東洋人、異形の者という差別語)と蔑称し、人間ではない“生き物”であると徹底的に教育した。初めて射殺したベトナム兵の死体を見ていい気分であったと告白している。然し、射殺のあとは、絶え間ない嘔吐に苦しんだ。殺し合いが日常になっている戦場では、極度の緊張とストレスから、ただの一瞬も解放される事はない。13ヶ月そのような状況に置かれれば、精神に異常をきたさない筈がない。戦闘の最前線から帰国した彼は、完全に人格が変っていた。米国独立記念日の爆竹音に、ベトナムの戦場がフラッシュバックされ、あわてて車の下に身を隠し、町中の人々の笑いものになるなど、彼はPTSD(心的外傷後ストレス障害)に罹患し、その治療に20年という長く苦しい歳月を要した。
アレン・ネルソン氏の提言
戦争で100万単位の命が失われていく残酷さもさることながら、心までも壊されていくその現実を、この本を読み終えて恐ろしいほど知らされた。
会報発行、講演会開催など、活動が盛んになるにつれ、出費が発生するようになりました。係りが協議した結果、会費制をとることにしました。2月の例会で改めて提案し、ご了解を得たいと願っていますが、すでに出費もありますので、年額500円を会計(渡辺峯)にお出しいただければ幸いです。
1月27日2時から立教大学教授(国際政治学)李鐘元さんによる講 演会「アジアの平和と憲法九条」を開きます。お誘いあわせの上ご参加下さい。チラシとポスターも出来ていますのでご活用ください。⇒ チラシ(A4両面、PDFファイル)